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紅花関係写真等資料

 紅花の原産地はどこなのであろうか。

 広辞苑(第五版)の「べにばな」の解説には、『小アジア・エジプト原産』と書かれている。さらに「小アジア」とは『地中海とエーゲ海、黒海に挟まれた西アジアの半島地域。アジア−トルコの大部分を占め、面積五○万平方キロメートル、別称アナトリア。』となっている。

 かつて、全国で初めて紅花に限って原産地の調査を行ったことがある。昭和52年に行われた、山形新聞・山形放送の八大事業の一つ「紅花の道を探る」である。

 調査団メンバーの一人で団長の渡部俊三氏は、当時山形大学農学部教授であった。沢田農学部長からこの海外取材を頼まれたときには、専門が果樹園芸学であり、突然の話でもあったので、いったんはお断りしたが、再度学部長からすすめられ、また同行するはずだった植物学者の結城嘉美氏が行けなくなったため、引き受けざるを得なかったという。

 この取材調査からちょうど14年後の平成3年に、渡部俊三氏はその著書「山形のベニバナ −雪国に咲く熱砂の花−」で、原産地についてこう記している。

 「エジプトのナイル川上流あたり(たとえばエチオピアということになるのだが・・・)ではなかろうかと考えられる。・・・中略・・・しかし、これは単なるあて推量であり、古代エジプトこそが原産地にふさわしく、エチオピアは、その源流を遡ったが故に単に野生種がそこに保存されているだけのことなのかもしれない。」

 いずれにせよ、昭和52年の調査の模様をご紹介する意味は大きいであろう。遠い異国で「山形の花」のルーツを追った男たちの肉声が聞こえてくるかもしれない。

 調査団メンバーの一人、真壁仁氏はその著作「紅の道紀行」(『紅花幻想』に収載)で、こう書いている。

「七日ほど滞在したボンベイを発ってアフガニスタンに入ったのは六月九日だった。・・・中略・・・ぼくらは着いた翌る日、ホテルの裏山へのぼって行った。本格的な探査の予行のつもりだった。ところが、銀鉱石か何かのキラキラ光る石ころの山肌をしばらくのぼったところで、思いがけずアザミの群生を発見した。野生のアザミにはちがいないが、分枝の形やトゲのある葉と頭状花は紅花の特徴を思わせる。「あった!」と思わず叫んだ。思いびととの出あいのような感動にとらえられた。蔓草のように地を匍っている雑草のあいだに、数種のアザミが点々と咲いている。これこそ紅花の原生の姿なのだと専門家でない大胆さでぼくは決めていいように思った。」


紅花の道を探る

  調査団メンバー


1977年6月2日 インドへ出発

 「紅花の道を探る」調査取材団が、2日午前10時50分の日航ジャンボ機で、羽田の東京国際空港から出発した。

 渡部団長は「25日間に渡る長い旅だが、500年の昔から山形の文化、経済の発展に貢献した紅花の原産地、伝来ルートを突き止め、染料、食用油としてのこれからの利用方法の手掛かりをつかみたい。」と語った。


1977年6月8日 ボンベイからのレポート 

 東京から13時間半、インドに到着。

 ボンベイは異様な町というのが、最初に受けた強烈な印象であった。夜、空港からホテルへの途中、道ばたに男も女もごろごろ寝ている。車が止まると、ボロボロの布をつけた人たちが施しを求めて手を差し出す。渡部団長は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思いだし、「逃げ出したくなるような国」と言った。真壁さんは「飢えた人たちの現実がこれほどとは・・・」と感想をもらす。

猛暑のデカン高原にはいる

 山形で調べた資料では、インドには野生花はないが、食用油に使っているらしいことはつかんでいた。油用にしているなら種があるはずだ。その種を探そう。37,38度の炎天下の市内を歩き回った。花屋、穀物店、クロフォード市場へ行った。ワラぼこりと人いきれ、汗のにおいの中をどれほど歩いただろうか。街角の穀物の種を売っているところに白いものを見つけた。「間違いありませんね」渡部団長が断言した。山形のものと同じかどうかは分析しないとわからない。

「野生花だ」似た姿に胸躍る

 それでも私たちは、野生の紅花を求めてボンベイから車で6時間余りのデカン高原へ入った。農村地帯コポリの町はずれで黄色い花を見つけた。田のへりに自生していた。花、葉からして紅花に属するアザミ科のものだ。「種が小さい。染色体を調べないとはっきりしたことは言えない」、渡部教授は私たちのはやる心をおさえた。

今も変わらぬ赤への思い

赤を求める心はインドにもある。色鮮やかなサリーであり、額につける赤いしるしである。女性は、未婚者も既婚者も朱を入れる。それは宗教的なものからきている。結婚すると女性は額だけでなく、髪の分け目を赤く染めている。結婚初夜に夫が塗ってやる。翌日には自分でつけるのだという。愛のしるしでもあるようだ。男でも額を赤くしている人がいた。その名をビンディ(髪の分け目のものはシンドールと呼ぶ)という。ビンディとは数種類の色をつけること、それ自体を総称する。そのビンディは今、サリーと同じく化学染料が使われている。紅花から採ったベニ、あるいは紅花染めをする人とは会えなかった。


1977年6月18日 カイロからのレポート

 アフガニスタンで私たちはついに野生の紅花に出会うことができた。首都カブールの郊外の山に咲いていた。といっても、すでに花の盛りは過ぎ、ドライフラワーのようになっているのがほとんどだった。しかし、まぎれもなく紅花である。 

 紅花発見は、ひょんなきっかけだった。カブールに着いた私たちは、食事に出かけた。そこに銀色にしたドライフラワーのいけ花があった。そのなかに、ひと枝、飾られていたのだ。「この近くでとれる花か?」「郊外に行けば見られるだろう」という。確かめようと思って、翌日出かけた。

 雑草しか生えていない山だった。しかも鋭い角石がごろごろしている山で「まるで、賽の河原だね」と冗談が出るようなところだった。紅花はそこに野生していた。花が赤紫のと白っぽいのと、トゲが鋭いのとトゲが少ないのと三種類あった。

 花頭は1cm、花苞(ほう)は2cm、トゲの長さ1.5〜1.8cm、葉の長さ5cm、幅3cm、種は扁平で灰色がかった黒で1〜2mm。草丈は30〜50cmだった。渡部団長によれば「染色体数20のグループ(山形の栽培種は24)に入るのではないか」という。そして、『ワイルド・サフラワー(野生紅花)ついに見つけたり!』と喜び、真壁さんは『野生の紅花をはじめて見た。わが国の我が住む里の花のふるさと』と記した。


1977年6月24日 ローマからのレポート

 エジプトで私たちは、首都カイロからナイル川上流のアスワンに行き、その周辺一帯で紅花の花びらと茎と種を確認した。農家の古老の話によると、数十年前までは花弁で女の人たちがほおを赤く化粧するのに使っていた。私たちはインドでの栽培、アフガニスタンで野生花を見てきたが、今回の調査対象の三カ国を回った結論は、ナイル川流域で古くから作られ、いまも息づいていること。そして山形と同じ紅化粧にし、薬用効果も知っていたと推定されることなどから、ここが原産地という説が有力、ということである。

 また、アガール村のマガールという地区に行き、多くの農民に当たった。山形から持参した花と種の写真を見せ「これと同じものはないか」と聞き回った。朝6時、あちこちの畑から、なにごとかと思って集まってくる。

 それは『コルトン』だよ、とアラビア人の古老が教えてくれた。ナイル川流域で栽培しているという。種をまくのは1〜2月ごろ。3カ月で収穫する。「1カ月前なら花があったのに」とも言った。なんとかその花を見たいというと、部落を駆け回り、種を取った後の乾燥した草丈1m余りの紅花を探してきてくれた。シーマという集落でも紅花の話を確認したし、カイロ市内の香辛料を売る店でも花びら、種を見ることができた。

 その農民や町の人たちの話などを総合すると、

 ということだった。

紀元前後の紅染め? つづれ織り カイロで入手

 農業省アスワン事務所によると、主な産地は中部エジプトのアシュート、ソハブ、ケナなど。サトウキビが一次産物、紅花は二次産物のため、ごく限られた面積の栽培だろうという。

 呼び方は、種はコルトンといい、花はオッスフル。野生種は聞いたことがない、と言った。「アスワン・ハイダムの周辺を探せば、あるいは見つかるかもしれない」と、私たちは期待したが、そこは立入禁止で入ることができないため、あきらめた。

 カイロ博物館を訪れた真壁さんは、紅染めと思しきものを見つけ、農村の古老の話などを併せて考えると、昔からこの地方で紅染めがあったのではないか、と推測している。つづれ織りなど紀元前後の若干の織物を入手したが、染色原料がなにかは今後の分析を待たなければならない。

 ナイルの農耕作物の紅花は、古代エジプトから日本にもたらされたものか。暑い国のものが、出羽の国・山形で育ち、残っているのは? 

 こちらの栽培期である冬と山形の夏との気温が似ているためとも推定されるし、紅花そのものが生育の過程で耐暑耐寒性の強い植物であることなどが関係しているように思われる。


1977年6月26日 ローマからパリ経由で帰国

 紅花一本に絞って原産地を調べたケースは全国でも初めてでもあり、種、花びら、茎、使い道を確認したのは世界的にも少ないといえそう。

 渡部団長は「アザミ科という広いものでなく、ベニバナ属を探し、そこから得たものは学術的にも貴重なものであり、いい体験だった」と述べ、真壁氏や堀田記者、阿部カメラマンは「赤に対する信仰心や、民族によって求めている色の違いなどを感じた」と語った。


1977年7月8日 調査を終えて(紙上座談会)

出席者:渡部俊三(W)、真壁仁(M)、堀田稔(H)、阿部修(A)、結城嘉美(Y)
司 会:田中山形新聞編集局長(T)

T:紅花の原産地ではないかと見られていた3カ国を回って、いろいろ苦労があったと思う。現地の気候、食べ物はどうでしたか? 真壁さん。
M:暑いのにはまいったね。特にボンベイの湿度の高さは、不快指数がぐーんと増す。しかし、アフガニスタンは、気温は高いがからっとしていて一番過ごしやすかった。
W:簡単な温度計を持って行った。メモにしたのを見るとボンベイで35度から38度、少し高原のブーナで朝の涼しいとき29度、日中は37,8度、地面は40度を超していた。アフガニスタンはかなり暑いと思って行ったが、標高が高いこともあって、予想に反し24度から高いときで36度、湿度は30%から35%と乾いている。エジプトはカイロで34度から42度で、アスワンは45度ぐらいだった。
Y:風俗的な特徴というとどんなものですか?
M:インドはサリー、アフガンはチャドル。エジプトでは男のワンピースのようなもの、ポンチョに似た感じのものです。
W:エジプトでは黒い服を着る女性がいたが、あれは強い日差しを防ぐものだと思う。男も、アフガンでは黒い背広。白く薄いものは日射を通すためだろう。頭に巻いているのも直射を避ける役と思う。
M:その意味では庄内のハコタンナと似ている。日射と強風、砂風を避けるということで。

赤を基調のインド 悪魔に対し身を守る色

T:服装のことを伺ったが、では色彩で表した場合、インドの色というのは?
M:赤を基調にした原色だ。派手ですね。装身具も徹底していまして、鼻、耳、足、腕に飾り付けている。
Y:そういう点では、日本人は淡泊なんですね。
A:お寺の先端に赤い旗が立っている。あれは魔除け、まじないだと思う。
H:女性は額にビンディをつけている。赤い色が多い。お寺に行くと男の人もつけてもらう。これは完全に魔除けの意味ということだった。
M:悪魔に対抗する色でもあると思う。色が自分の身を守って、入り込まないようにね。
T:アフガニスタンはどうですか?
W:ここはもっと鮮明な赤であり、また黒が基調になっている。男性の場合は、3カ国に共通していえることは白が基調だった。
M:エジプトでは、コバルトが目についた。宗教的な意味があるのでは・・・。
W:そうですね。あれはモスクを飾るものであり、白とコバルトは、現地の民族学者によれば、モスクの表現だそうです。イランやトルコもそうらしい。
A:コバルトはアラビア人の表札にも使っていた。
H:色に対する欲求の強さがある。しかも原色であり、日本では、とても着たり、つけたりできないと思うものが、なんの抵抗もなく受け入れられている。
M:泥、土の世界にあって、「生きているあかし」として原色を求める。自然の中に欠乏しているから、これは動物にとっては必要なことだと思う。
T:赤を表現する染料は何だろう。今は化学染料だが、昔はどうだったのか・・・。
W:紅花かあかねだと思う。すおうは退色しやすいので。
M:織りの糸とか布には染料を使ったと思うが、エジプトの巨石文化の石を染めているのは顔料だと思う。顔料にはベンガラを使っていたんでしょうね。
T:赤としては、ほかに何が考えられるのでしょうか?
Y:カーミンでしょうね。これは顕微鏡をみるときに使う。メキシコのサボテンにつくコチニールという貝がら虫からとるもので、ヨーロッパでも紅花以上に赤として使われた。

古い時代の布を入手 世界に誇れる「山形べに」

T:さて、紅花取材行の収穫はどうだったんでしょう。
W:種、花弁を確認したし、野生種はカブールで見つけることができた。それに、当初はここまでやれるかどうかと思っていた古い時代の布きれを、ある人の尽力で曲がりなりにも入手できたことだ。真壁さんも紅染めらしきものを現地で求めてこられたし。
A:さらにビンディをつけるところの実演をフィルムに収録できたし、予想外なのは遊牧民のテントに入れたこと、エジプト農家の内部を見せてもらったことだ。
W:残念なのは、紅そのもの、あるいは紅にまつわるものが、諸外国では遠ざかっていて、なかなかたぐれなかったことだ。
M:そう、出発点から帰着点に戻ったら、その帰着点の日本、山形に、一番豊富にあった(笑い)
Y:世界的に、山形の紅は見直すべきですね。
W:見直すどころか、貴重なものです。文献的に残っているところは世界でも少ないと思われます。文献があり、現物がある山形は、もっと宣伝してもいい。英文でもなんでもいいから、「私どもはこう使っている。こう栽培している。あなた方の持っていた紅はどうしたか」と呼びかけたい気持ちですね。

乾性油から食用に

W:文献による知識だが、ペンキをとかすのに、乾性油としては最高で、それが「陸上の畑からとれる石油」といわれるくらい貴重な時代があった。今は石炭からとれる水溶性ビニールペイントができて、全く心配なくなったが、乾きも早いし自由に調合できる。そうなると目の色変えて作った陸上の石油をどうするか。さばかなければいけない。そのためには、精製すればサラダ油になり、リノール酸が高いのでという宣伝で健康食になっている。工業油だったのが食用油になった。昔からソ連の南、アフガニスタン近くで栽培されていたというのを根拠に、米ソは、紅花油を得るために、回収合戦を繰り広げた。中国は中国で回収するで、それを知らなかったのは日本だけ。
T:なるほど。日本で油を取ったという話はあまり聞かない。
W:ないですね。そこが一つのナゾになると思う。例えば中東あたりから中国を通って紅花
が流れてきたとすれば、気候風土が違っても種から油がとれたはず。それが中国を通っている間に油利用が消えたことになり、紅の姿になってきた。宗教的なものか気候風土的なものか。あるいは別の要素があったのか。その辺は、これからの調査で興味あるところではないだろうか。
Y:灯に使った歴史、紅花スミ(墨)はあったけどね・・・
M:カイロ博物館で遺跡から持ってきたものを見たが、色を何からとったのかを考えるとき、あれだけ精巧な美術工芸文化をつくった人たち、造形美術をつくった人たちが、色に無関係なはずはなく、いろんなものから色をとる方法を知っていたと思う。その中であかねなどを使っていたのではないだろうか。
Y:日本でもどこでも植物染料が、染料として一番利用されていたと思う。アフガニスタン、エジプトでは、むらさき、あかねの植物など育つものではない。育つのは紅花だけではないか。トゲのあるのは本来は砂漠のものだ。山形のは飼い慣らして作っているのだ(笑い)。そこから考えると、赤の染料、紅花の県産地が砂漠地帯とくっついてしまうんだなあ。

遊牧民、鳥獣が運ぶ?

T:今度の調査からして、紅花の原点はどの辺にあると考えられますか?
W:あとで(紙上掲載する)レポートで詳しく述べますが、植物の原生種類からすれば、アフガニスタンが一つの強い震源地であり、古代文明あるいは人と紅染めの関わり合いを重視すれば、エジプトのナイル川上流が最大だろう。しかし、インダス、ガンジス川流域、中国に足を踏み入れていないので・・・。
T:どうして渡ってきたか。その過程について考えられることはどんなことですか?
M:まず考えられるのは「運び屋」として遊牧民のような人間を介してといえよう。
W:そう、人間が目的を持って運んだという考察ができる。それと、水、風、鳥獣。
A:ルートとしては、シルクロードならぬベニバナロードを通り、古代文明、仏教文明、中国文化などとともに伝わってきたのではないか。
M:どの道を通ってきたかも大事だが、砂漠などの作物がどうして日本で栽培作物になったか、そこに文化史的な意義がある。
W:植物には極限力と順化力があり、紅花は双方を備えている。

見直される植物染料の役割

T:最後に、今後の課題といったものを。
H:出発前、米沢の人から今の農政指導のあり方に対する批判を聞いた。大事なものだから残すというより、金のなる方に向いている。これでいいんだろうかとの反省が出てくる。
W:先祖伝来の作物を簡単に捨てるものではないことを、声を大にして言いたい。一度失ったものを取り戻すのは大変なことだ。近い将来、植物性赤色色素の増産が求められてくるだろうし、油用作物としても活用できるので、県下の栽培適地などを十分検討していくべきだ。庄内砂丘地も対象の一つだろう。
H:口紅ひとつとってみても、自然の紅をつけないと危ないという時期がくるのではないか。
M:3カ国で感じたのは、紅を滅ぼしていったのは化学工業。植物染料が持っている役割が、 もう一度見直されなくてはいけない。化学染料の恐ろしさを知ったときでは遅い。
T:では、この辺で・・・。


1977年7月14日 渡部団長の報告

 本県に古くから栽培され、県民生活との繋がりも非常に深いベニバナの原産地はどこだろうか。今回取材調査した範囲に基づき考察してみよう。その前にアメリカのノーレス氏が各国のベニバナ栽培事情を調査検討した結果を表にまとめ紹介しておく。

      世界的にみた紅花の栽培中心

栽培中心 地域、国名及び地名
(1)極東 中国、日本、韓国
(2)インド・パキスタン インド(南中部、デカン高原山麓)
パキスタン(東西パキスタン)
(3)中東 アフガニスタン(カブール周辺)からトルコにかけて
南ソビエトからインド洋にかけて
(4)エジプト ナイル川流域、アスワン北方コモンボ(移住したヌビア人の村落)
(5)スーダン ナイル川辺りの北スーダンから南エジプトにかけて
(6)エチオピア 不明
(7)ヨーロッパ スペイン、ポルトガル、フランス、イタリア、ルーマニア

 インドのベニバナ栽培は現在デカン高原北部のマハラシュトラ州オーランガバド・アコーラ・チャンダ地方が中心である。これらの地方では自然降雨待ちの農業が実情とはいえ、古くから農耕文化が開かれていた土地のように思われる。

 したがって、これらインド中部の山岳農業地帯に、あるいはベニバナ栽培起源があったのかも知れない。

生活に密着する「赤」

 インドでは人々の生活と赤色との関係は極めて深く、宗教的あるいは装飾的表現手段として、赤が昔から使われていた。その習慣は今日でもかなり自然なものとして残されており、その証拠はビンディ(額につける赤丸印)、シンドール(既婚の女性が頭髪の分け目につける赤い線)あるいは寺院の尖塔に掲げられた赤色布、さらにはサリーの赤い染め布にみることができる。
 このように生活に密着した赤色を昔、何によって得ていたか。化学染料の登場しない昔のことだから、当然天然染料に頼っていたものと考えられ、赤を表現しうる植物性色素としては、アカネまたはベニバナしかなかったのではないかと思われてくる。
 ベニバナの生育と気象条件とに焦点をしぼっても、インド国内の山岳地帯は十分その生育に適合しうる地帯であり、インド中・北部から現パキスタンにかけて原産地があったのではと想像しても不合理とはいえない。また、人類の文化の発祥、あるいは気候文明的な立場に立つと、インダス、ガンジス川の流域も原生植物の宝庫のように思われる。

今も息づく野生種

 アフガニスタンのカブールでは、われわれは多くのアザミ類植物を見た。野生のベニバナも採集した。このことからベニバナ原産地として極めて有力な地点と判断した。確かに気象的な条件としても、標高が高く、局地的には水資源も豊かで、開花から結実までの期間は大気が乾燥し、しかも地下部土壌には雪どけ水が保持されているという、やや理想的条件のもとにおかれている。しかし、「栽培植物の起源」の著者で、スイスの生んだ高名な植物学者、ドゥ・カンドルの「そこに同種の植物が多数見られるからといって、必ずしもそこが原産地とは限らない」という言葉を尊重しないわけにはゆかない。
 カブールはベニバナの原産地の一つではあるかも知れない。しかし、住民のベニバナに対する関心は、現在必ずしも高いとはいえなかった。ただ町で見かける古い衣類、ジュータン、テーブルクロスなどの染め上がりは、紅染めに全く類似していた。

人と深いかかわり

 最後の取材国エジプトでは、これまでのインド、アフガニスタンとは違って、まず第一に人々とベニバナとの関わり合いが、今日でも実に濃厚であることにわれわれは驚かされた。その端的な例は、カイロ、アスワン両市でのベニバナ花べんの販売利用の現状であり、さらにはまた農民の「先祖伝来この土地で栽培している」という歯切れのよい返答であった。これはインド、アフガニスタンではついに聞き出し得なかったことであり、この国、この地方が、いかに古くから、そして今もなおベニバナとの関わり合いを持ち続けているかを示すものであろう。

種子、県産より大型

 今回の取材調査では、幸いにして貴重な種子を入手できた。これらの種子は外部形態的には大差がなく、いずれも山形県産のものよりやや大型で、種皮の色が白色に近いという特徴を示す。これらが運良く発芽してくれれば、さらに詳細な血縁関係が明らかにされるものと思う。
 現在われわれが利用している栽培食物は、多くは野生のものから長い間かかって人間が淘汰することによって、次第に改良されたものであることは確かだ。これらの源流をたどることは、自然の歴史あるいは人類の歴史と深い関わり合いを持っている。したがって、一つの栽培植物の原産地を探すにしても、植物学、考古学、言語学など、あるいは人類学まで含めて、多方面にわたって解析されなければ、とうてい把握しきれないものだろう。
 その点、われわれの取材調査は決して十分とはいえないかも知れない。インド、アフガニスタン、エジプトのいずれも原産地としての素地があるが、植物の現存する種類の豊富さからすればカブール辺りが最も強い震源地であり、古代文明、あるいは人と紅染めとの関わり合いを重視するならば、ナイル川の上流にその源を求めることも至当と思われた。


1978年7月12日 持ち帰った種が開花(鈴木孝男)

 米沢市立第四中学校(米沢市春日)の鈴木孝男教諭が、海外特派団から、持ち帰った種子を分けてもらい、5月6日に同校紅花クラブの生徒とともに校庭に植え付けた。

 ボンベイ、ニューデリー、アスワン産の種子30個ずつと、日本の和紅の種子も植えた。

 発芽したのは8日目から10日目が多かったが、早いのと遅いので13日もの差があった。発芽率は和紅の70%よりニューデリー産が20%も上回った。27日までにボンベイ産が49p、ニューデリー産が61p、アスワン産が79p、和紅が66pに生長、つぼみも出てきた。ニューデリー産と和紅は似ているが、アスワン産はわき枝の伸び方や葉の形が全く違っていた。大きいだけでなく、分枝がたくさんあり、葉に切り込みが少なく、丸味をおびていた。

 6月末の大雨でアスワン産の7本のうち2本が腐ってしまった。

 7月10日ボンベイ産が開花、12日早朝にはアスワン産、ニューデリー産が黄色い花を咲かせた。開花前、アスワン産は草丈も他を圧倒して高いだけでなく、葉も丸味があったが、和紅やニューデリー産とほぼ同じで、やや明るい感じがする程度の違いだけだった。


1978年7月14日 持ち帰った種が開花(渡部俊三)

 渡部俊三教授は、持ち帰った種を4月10日に鶴岡市内で鉢にまいた。アフガニスタンの種子は県産紅花と似ているが、インド、エジプト産は約2倍の大きさ。温度が18度くらいのときは2日で発芽、低温にしても4日間で発芽した。今年は、花粉ができる6月中下旬にかけて長雨に見舞われ苦労した。県産紅花と比べると花の大きさは同じだが、いずれも黄色が濃い。特にエジプト産は黄色の花といってもいいほど。また、葉はインド、アフガニスタン産はトゲが鋭く県産と似ているが、全体的に丸味をおびている。

 紅色独特の鮮やかな色彩を採るには県産の方が優れており、持ち帰ったものは油脂の採取に適していることがわかった。

 一方、厳しい自然の中で育つ野生種の種子は皮が硬く、かろうじて1粒だけ発芽した。生長は遅く、ようやく3pになったばかり。これは砂漠が洪水になったとき、種子が激しくもまれて皮がむけて発芽し。花が咲くまで2,3年かかっているものとみられている。

END

 

以下の山形新聞記事から引用させていただきました。

昭和57年6月 3日朝刊 1面
昭和57年6月 9日夕刊 1面
昭和57年6月19日朝刊 1面
昭和57年6月24日夕刊 1面
昭和57年6月27日朝刊 1面
昭和57年7月 8日朝刊 7面
昭和57年7月14日夕刊 1面
昭和58年6月28日夕刊 3面
昭和58年7月13日朝刊12面
昭和58年7月15日朝刊12面